「回答」についての「感想」

一つ前のエントリーについて回答を頂きました。

greg-yamada.hatenablog.com

この中で、

「例えば戦争においてある兵士にとって敵兵は、ある意味個人的に無関係であるのは否定できませんが、しかしながら、あくまで「敵」であり、相互に納得の上で殺し合いをしている以上、無関係とはいえないでしょう。然るに、私は国家の成員であり、その意味で無関係ではない「敵」に対して(間接的に)殺害に及ぶことは、当然の話であろうと思います」

については、既に拘束、収監している場合、敵兵は「捕虜」であって、捕虜は国際条約で非人道的な扱いを禁じられており、拘束した国事犯も同じではないか?という点、また、

「『国家に対する敵対行為』は国家とその成員全員に対して喧嘩を売っていることであり」

については、建前的にはそうであっても、実際には大半の反体制活動は「悪い体制によって苦しめられる国民、人民を解放する」つもりで行われるものであり、喧嘩を売っているのは成員全員ではなく体制の権力者のみである例も多い、

と既に前エントリーで述べました。

 

上記の「回答」に対するわたくしのブコメこちらです。

「死刑廃止論の例外」についての回答 - グレッグ山田の文句百万回

個人と国家の関係についての価値観に根本的な考え方の違いがあるようなので、議論としては平行線だなぁ、という感じです。ただ、そのような考え方もある、という点は理解しました。

2016/10/15 18:21

b.hatena.ne.jp

「個人と国家の関係についての価値観」とかいうちょっと妙な言い回しをしてしまいましたが、結局これが何だったのか考えてみると、

「個人の生命の尊厳」と「国家」の両者をどの程度のバランスで重視するのか、という点ではないかと思います。

勿論、これは単純に「○○の方が大事」と簡単に結論づけられるものではありません。国家が安定して支配することで治安が安定し、それによって個人の生命の尊厳が守られることになるわけですから、国家というものも重要です。

ただし、「個人の生命の尊厳」は近、現代社会においてある程度普遍的な価値観であり、それは「天賦人権説」に従えば、人間が作った法制度や国家制度とは別に確固として存在しているものとなるはずです。ですから、命の重さについては国内の一般の犯罪者も、国事犯も、敵国の捕虜も、本質的には差があってはならないはずです。

私が死刑廃止論を「人命を重視する崇高な理念」だと感じながらも、いまだそれを躊躇なく支持できない理由は、日本で死刑判決を受けるような犯罪者は(勿論冤罪の場合は別として)他人の「個人の生命の尊厳」を複数以上、踏み躙っているからでもあります。「個人的に無関係の犯罪者が死んでもどうでもいい」という気持ちにはそう簡単にはなれない訳です。

国内の一般の犯罪については死刑廃止の立場に立ちながら、国事犯についてはあっさりと「死刑は妥当」としてしまうのは、国家の外と内で「個人の生命の尊厳」に差をつけているわけで、すなわち「国家」というものの存在に生命の価値に差をつけられる程の重さを認めていることになります。「国家は復讐の代行機関ではない」と仰りながら、国家自身が自らを傷つけたものに対して復讐することは認めていることになります。

私は、国家というものは個人が安全に暮らす為に、一定の地域に住む人間達の合意によって作られる装置のようなものでしかないと考えています。ですから(あくまで理想論としては)その外と内で「天賦」である「個人の生命の尊厳」に差があるべきではない、というのが私の考えです。ですから、一般の犯罪については死刑を廃止すべきだが、国事犯については死刑は妥当、とするのはやはり矛盾であると感じざるを得ませんでした。

 

 

 

「死刑廃止論の例外」についての疑問

とある方のツイートが元で、以前からあった死刑の是非についての議論がちょっと盛り上がった(?)ようです。

 

私自身は、死刑については廃止すべきか、存続すべきかは結論が出せません。「国家が殺人を犯して良いのか?」「冤罪を完全に無くすことはできない」という意見も尤もだと思いますし、その人命を重視する理念は崇高なものだとも感じますが、一方で、尼崎で起きた凶悪事件の首謀者である角田美代子などは、単なる死刑などではなく、なるべく長時間に渡って多大な苦しみを与え続けるような、極力残虐な方法で死刑にすべき!などという気持ちも(個人的感情としては)持ってしまいます。 

ただ、個人的にはこのブログで述べられている死刑廃止論の根拠が、感情的な言葉を排して冷静に客観的に述べられていてとてもわかりやすく、参考になりました。

greg-yamada.hatenablog.com

ただし、最後の節「死刑廃止の例外」については全く納得がいかなかったので、次のようなブコメをしました。

死刑廃止論者はこう考えているということをなるべく明晰に書いてみる - グレッグ山田の文句百万回

これを読んでも死刑の是非について自分の中では答えが出ないが、廃止論について理解を深めることは出来た。ただし、最後の「死刑廃止の例外」節についてはその前の部分の主張と矛盾しており全く説得力がない。

2016/10/06 02:50

b.hatena.ne.jp

これについては次のような回答を頂きました。以下引用です。

ブコメ回答id:aw18831945
すこし、分かりにくかったので補足。
要するに、犯罪者を裁くのは、ある政治的編成をされた集団のメンバー(友)が法を逸脱した場合、隔離矯正するためであると考えるなら、そもそもその政治的編成をされた集団の「敵」(裏切者)に対しては、死刑、より厳密に言うなら戦闘行動としての殺傷を行うことに矛盾はないかと思います。」引用終わり。

うーむ、ご回答を頂いて申し訳ないのですが、やはり全くわかりません。グレッグ山田さんが死刑廃止の根拠とされていたものが、これだけの理由で全て無効になるというのはやはり全く納得できませんでした…。

1,冤罪の可能性

「外患材や内乱罪のような国事犯、反乱や抗命、敵前逃亡や利敵行為」についても、冤罪の可能性は排除できません。特に敵前逃亡や利敵行為は(例えば軍の上官や上層部の不正を暴こうとしているなどの)特定の人物を陥れる為に周囲の人間が口裏を合わせる、という可能性は大いにあるでしょう。

2,「国家(あるいは政府)が殺人を犯すことになる」

いわゆる「反体制派」というものは、その国家体制下にある国民、人民全てに対して危害を加える、又は殺害することを目的に活動している例は殆ど無いでしょう。多くの反体制派の活動の理由は、「現体制は無能である又は間違っているが故に国民、人民を不幸にしている。」なので、左翼系ならば「国民、人民の幸福のため」右翼系なら「自民族が正しい方向に立ち返る為に」反体制活動をしている訳です。その是非は別としても、それが角田美代子のような私利私欲の為の凶悪犯罪よりも、国民、人民に対して重大な犯罪だと言えるのかどうか?角田美代子を死刑にしないのなら、国民、人民や自民族の幸福の為を思った行動(それが客観的に見て間違っていたとしても)を死刑に出来るのでしょうか?(もちろん私は、完全普通選挙の行われている現在の日本で、社会変革の為とはいえテロ活動を行う団体は決して支持しませんが…。)

敵前逃亡についていえば、実際に戦場に立ってみたらあまりに恐ろしくて逃げてしまった、あるいは人を殺したくないという信念に基づいて逃亡した場合、

利敵行為については、敵軍に脅迫、拷問されて恐怖のあまり利敵行為に加担してしまった、という場合、国家の為に国民があるのではなく、国民の為に国家があると言う現代民主主義の価値観に基づいて、それが角田美代子のような国内の一般凶悪犯より重罪だと言えるのでしょうか?

 

要するに、死刑廃止の根拠について、それまで非常に明晰に明快に説明していらしたグレッグ山田さんが、「例外」とされる死刑に対してはその論拠を実にあっさりと翻してしまうところが全く不思議でなりません。

革マル中核派のような過激派集団ならまだしも、極右やネトウヨの人達は合法的活動を行う日本共産党やシールズ、社民党あたりまで「反体制危険分子」などと呼んだりする訳で、時の権力の都合で外患材や内乱罪なんてものは恣意的に擦り付けられる可能性もあります。

 

上に書いたように私は死刑については賛成とも反対とも言い難い立場ですが、もし仮に死刑反対の立場に立つならば、その時点での権力の都合によって幾らでも擦り付けられる「外患材や内乱罪のような国事犯、反乱や抗命、敵前逃亡や利敵行為」について、死刑廃止の例外なのは妥当、という結論は全く受け入れられませんでした…。

 

 3. 戦闘行動としての殺傷である

私のブコメに対する回答として、「そもそもその政治的編成をされた集団の「敵」(裏切者)に対しては、死刑、より厳密に言うなら戦闘行動としての殺傷を行うことに矛盾はないかと思います。」とあります。仮に戦場において戦闘中であれば、敵兵は撃たねばならないでしょう。国事犯=敵兵と考えると、例えばテロリストがテロを実行中なら、当然市民の安全のためには射殺も止む無しです。しかし、既に拘束され収監された敵兵は捕虜です。

捕虜 - Wikipediaの現時点の版(2016年9月29日 (木) 13:00(JST)の版)では次のような記述があります。(以下引用)

「1949年8月12日のジュネーヴ条約4規程及び1977年の第一追加議定書によって、戦時における軍隊の傷病者、捕虜、民間人、外国人の身分、取扱いなどが定められている。第3条約「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」により、ハーグ陸戦条約の捕虜規定で保護される当事国の正規の軍隊構成員とその一部をなす民兵隊・義勇隊に加え、当該国の「その他の」民兵隊、義勇隊(組織的抵抗運動を含む)の構成員で、一定の条件(a, 指揮者の存在、b, 特殊標章の装着、c, 公然たる武器の携行、d, 戦争の法規の遵守)を満たすものにも捕虜資格を認めた。

1977年の第一追加議定書ではさらに民族解放戦争等のゲリラ戦を考慮し資格の拡大をはかった。旧来の正規兵、不正規兵(条件付捕虜資格者)の区別を排除し、責任ある指揮者の下にある「すべての組織された軍隊、集団および団体」を一律に紛争当事国の軍隊とし、かつこの構成員として敵対行為に参加する者で、その者が敵の権力内に陥ったときは捕虜となることを新たに定めたのである。

なおテロリスト等は国際法上交戦者とはされず、捕虜にはなり得ない。最近では軍隊とテロリスト等が交戦する非対称戦争が注目されている。むやみに捕縛者を犯罪者扱いすれば国内外からの非難を浴びかねないこともあり人道的見地から捕虜に準じた扱いをとるケースが増えている」(引用終わり)

このように不正規兵も捕虜と扱われ、テロリストですら「人道的見地から捕虜に準じた扱いをとるケースが増えている」という近年の状況において、人命は尊いという人道的見地から死刑廃止を唱える方が、国事犯や軍法においては「銃殺が妥当」とするのは、やはり全く納得がいかない…というのが私の感想です。

 

 

そんなに大好きという訳でもないが無調音楽や現代音楽を擁護してみる試み

もう2ヶ月近く前になりますが、こういうTogetterまとめがありました。

これに対するはてなブックマークこちら。

このはてなブックマークでの私のコメントはこちらでした。

「なぜクラシック音楽の人口が減り続け、今も激減しているのか」をとてもわかりやすく説明→分かり易すぎると話題に - Togetterまとめ

時代とともに美的価値観は変化するので、古典芸術が厳しくなるのは仕方ない。諸行無常。俺はクラシックしか聴かない人間だけど、無理に布教する気もないし、懐石と同じように一部の愛好者によって続けばそれで十分。

2016/04/22 01:43

また、このブコメの某コメントで「よりきちんと洞察」としていたのがこのブログ記事…。

正直言うと、この記事についての私の感想は、全体的に「何だかなぁ〜」という感じでしたが、これについてのコメントはこちらです。

クラシック音楽衰退の原因と対策(4万回 PV記念): 壺中日月長

「対策:国内外の作曲コンクールは、すべて『調性音楽』で作曲するよう改正する」そういうことをやったのはスターリン時代のソ連とかナチスドイツなど独裁政権ばかり。前衛芸術の禁止は文化統制の一種です。

2016/04/22 14:50

全部は書ききれないので言いたいことの一部だけを書いたブコメです。

 

無調音楽はしばしば核エネルギーや共産主義に例えられることがあります。

いずれも19世紀終盤に予言され、20世紀前半に実現し、夢と希望に溢れた豊かな未来を約束する新発明として登場しました。

しかし、核エネルギーは広島、長崎での原爆投下による大虐殺、スリーマイル島チェルノブイリの事故による環境破壊をもたらし「共産主義」はスターリンの大粛清やポルポトの大虐殺を引き起こします。

とは言え、核エネルギーの研究はレントゲン撮影や放射線治療といった恩恵もまた生み出しました。

マルクス主義の思想は労働者の権利の保護や弱者救済の社会保障制度を生み出し、議会制民主主義を否定しない西欧のユーロコミュニズムや日本の共産党は、先進諸国の民主主義社会における有力な野党勢力であり続けています。

無調音楽についても、極端に前衛的な一部の人達は聴衆の理解を度外視した作品を書き、理解できない人からは単なる騒音と感じられるような作品も書かれました(もちろん、前衛的芸術表現の探求それ自体は一定の価値のあるものであり一概に否定されるべきではありませんが…)。しかし、無調音楽であってもなかなか美しい音楽、駄目で退屈な調性音楽より楽しめる音楽は存在していると感じます。例えば…

 

シェーンベルク:5つの管弦楽曲op.16

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この曲をイヤホンで聴きながら新宿駅の地下の雑踏を通り抜けると結構楽しそうですよね。…楽しくないですか。そうですか。

ヴェーベルン管弦楽のための6つの小品op.6

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ヴェーベルン交響曲op.21

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ヴェーベルンの音楽は、あえて俗っぽい例えをすると霧に包まれた湖というか、山奥の秘湯の露天風呂に一人で浸かっているような神秘的な美しさがありますね。…そんな感じはしないですか。そうですか。

*ヘンツェ:交響曲第3番

Henze SY03 - YouTube

*ノーノ:『力と光の波のように』

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いや〜、どちらも盛り上がると血湧き肉踊る楽しさですね。…楽しくないですかそうですか。

*移調の限られた旋法

 フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは「移調の限られた旋法」というものを用いましたが、 

移調の限られた旋法 - Wikipedia

これは作曲者の使い方次第で調的にも多調的にも無調的にもできる代物で、ある意味、調性と無調の緩衝地帯、あるいは調性と無調の平和共存のような趣があります。

メシアン:峡谷から星々へ

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メシアン彼方の閃光

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*調性音楽を禁止さえすれば「現代音楽」ではなくロマン派音楽になるのか?

たとえばミニマリストの音楽は現代音楽の一分野ですが、「調性音楽」か「無調音楽」かといえば、あきらかに調性音楽の方に入る訳です。(「ミニマリスト」といってもちょっと前に流行った「極めて質素な生活をする人達」のことではありません。音楽でミニマリストといったら「ミニマルミュージック」のことですね)その代表者の一人としてスティーヴ・ライヒという作曲家がいます。

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どちらも1970年代後半、今から40年ほど前に作曲された「現代音楽」になるわけですが、うえのブログで

国内外の作曲コンクールは、すべて「調性音楽」で作曲するよう改正する」 

と仰っていた方は、果たしてこれらの音楽をどう感じるのでしょうか?

 

メシアンの「移調の限られた旋法」の例のように、「調性音楽」と「無調音楽」は明確に線を引いて分けられるものではないし、「現代音楽」と「現代音楽でない音楽」も、明確に線引きできるものではありません。コンクールで「これは無調音楽だから失格」「これはミニマルミュージックだから現代音楽であり失格」とか、誰が判定できるのでしょうか?

 

 

 

…で、結局何が言いたいのかと申しますと、かつて大衆娯楽の花形であった歌舞伎が時代の変化によって今は古典芸能になっているように、クラシック音楽も今では古典芸能の一種であり、博物館で飾られる骨董品、美術館に飾られる古典絵画のようなものです。それで別に良いんです。大衆娯楽の花形として復活させようとする必要などありません。

現代音楽も美術館に飾られる現代アートのようなものです。大衆娯楽ではありません。それでいいんじゃないでしょうか。

ブコメでも書いた通り私は音楽はクラシックしか聴かない人間ですが、今まで買った沢山のCDをiTunesに入れて死ぬまでスマホで聴きたい時に聴きたいだけ聴ければそれで十分です。

私が死んだ後の時代にクラシック音楽や現代音楽が滅んでもはや演奏されなくなったとしても、諸行無常だからそれで良いんじゃないでしょうか…