「天賦人権論」の「天」とは儒教の「天」であってキリスト教の唯一神じゃありませんよという話。

 

 

天賦人権論(テンプジンケンロン)とは - コトバンク

 

これは自分でも忘れないようにしておくためのメモでもあるのですが、要するに、

西洋においてもキリスト教普及以後から中世以前の宗教の権威が強かった頃は「命や権利は神様が与えてくだすったものだから、人間はそれに感謝して神に仕え、神の教えを守る義務がある」みたいに考えられていた訳です。

近世の啓蒙思想の時代になると理性によって宗教的思考が否定され、そこから人には(神に与えられたのではなく)「生まれながらに」「自然に」権利があると考えられるようになり、これが「自然権」と呼ばれるようになりました。つまり、権利は神によって上から与えられたのではなく、元々生まれながらに自然に持っているものだ!という思考な訳ですね。

ところが、この思想が明治初期に日本に入って来た時に不思議なことが起きます。

「自然に持っている」という意味を当時の日本人はそのままの意味では理解できなかったのでしょう。だから「原始儒教的な宇宙万物の主宰としての天の観念」(世界第百科事典 第2版)が媒介し「自然」が「天賦」になってしまったのです。上から与えられたことを否定して生まれた自然権が、日本では「天に与えられた」ものになってしまうのです。

さて現代においてはこれがさらに捻じ曲がった様相を呈します。「天賦人権論」は「自然権」の日本独自の誤訳であったにも関わらず、現代日本では「西洋の人権思想」=「天賦人権論」=「人権とは(キリスト教の)唯一神が人々に権利を与えてくだすったものである」という珍妙な誤解が広まっているのであります。これには勿論「アメリカ独立宣言」の文言の影響もあるでしょう。しかし自然権の思想は唯物論的、無神論的な社会契約説を元に生まれて来たのであり、「アメリカ独立宣言」はこれを当時のアメリカ人に解りやすく伝えるための方便のようなもので、これは本来の「自然権」の発想とは対極だと言えましょう。