ヘイトが蔓延する時代のベートーヴェンとマーラー

何だか大仰なタイトルですが、別に深い分析とかではなく個人的、主観的な内容です…

 

以前にも書いたような書いていないような気もするのですが、私は中学生の時にドヴォルザーク交響曲第7番に感動してからクラシック音楽を聴くようになり、当初はそのドヴォルザークを中心として、同じように19世紀後半に活躍していたチャイコフスキーとかブラームスといったあたりに触手を伸ばして行った訳ですが、やがてマーラーの音楽に出逢います。

中学生の頃の私はやはりある種の「中(厨)二病」的感性がありましたから(この「中(厨)二病」という言葉は世代や個々人によって意味合いが多少異なるようですが、ここで言っている意味は、ニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」を十分に理解できぬまま無理矢理読破して「俺も超人になるぞ〜!」みたいに思ってしまうような痛々しい感性だと思って下さい)マーラーのひたすら長大で意味有りげな交響曲はとても良く効きました。そして何を思ったのか「俺も偉大で長大な交響曲を死ぬまで10曲くらい書きたい」と考えて、それまで全く弾いたことのなかったピアノや和声や対位法を学び始めてしまったのです。

結局の所、作曲の才能は無かったようで音大は声楽科を卒業し、その後自称プロ最底辺声楽家になってしまいました…

まあそんな訳ですから、若い頃の私にとってはマーラーはあらゆる音楽の頂点、神のような存在でした。理由は非常にシンプルで、自分にとって最も感動できる音楽だから、というものです。マーラーに次ぐ存在はワーグナーブルックナーでした。バッハやベートーヴェンにも感動はしましたが、あくまでマーラーを頂点とする後期ロマン派にむけて音楽が進化し続ける途上にある「発展途上音楽」というのが正直な印象でした。

しかしやがて、巨大な感動の裏にある種の空しさを感じることに気付きます。

ファウストの天上への救済が描かれる第8番、永遠の春を夢想して終わる「大地の歌」、天国とも天上とも極楽浄土ともいえるような形而上学的な架空の理想世界へ救済されることをひたすら夢想するような9番、10番の終幕。いずれもある種の現実逃避のような側面があることに気付きます。

ブルックナーワーグナーにも結局は似たような側面があり、ブルックナーでいえば甘美な祈りに耽る8番のアダージョ長調で終わりながらも全体に悲劇的な色調の9番のアダージョワーグナーも最後の楽劇となったパルジファルの最終幕では全体にゆっくりとしたテンポで宗教的妄想の要な救済が描かれます。

このように、現実を離れた架空の巨大な世界に浸って救済を願うような姿勢は1848年の革命が失敗した後の時代の空気が影響しているのかもしれません。

 

「ほんとうに優れた芸術なら、その感動に空しさは覚えないはずでは?」などと思ってしまった私は、「空しさの無い真の感動」とやらを求め、しばしばクラシック音楽の世界で最高峰とされるバッハ、モーツァルトベートーヴェンにその「真の感動」を求めてみたのでした。まあ、そこにはこの三人の音楽が最高であると理解できる者が真の通である、みたいな権威主義に無意識に影響を受けていた面もあるのかもしれません。

後期ロマン派趣味の私にとって一番自然に共感できるのはバッハです。バッハにはブラームスやレーガーに似たドイツ的叙情があります。合唱でロ短調ミサなどを歌ったこともありますから、その対位法の巧みさが舌を巻くようなものであることもわかります。

モーツァルトは正直苦手でしたが、真剣に聴けば人間的感情を排したような独特の宝石の様な美しさがあり、そこに思わず涙しそうになったこともまあ無くはないです。モーツァルト信奉者の文章には「モーツァルトこそが飛び抜けた天才、モーツァルトが解らない奴は馬鹿。モーツァルトのわかる奴こそ真の通」みたいな雰囲気がしばしばありますから、私も頑張って理解してみようと努めてみた訳です。しかし、モーツァルトを聴きたくない時にラジオやカフェのBGMで聴こえてくるモーツァルトの音楽には時に神経を逆撫でされるような不快さを感じるのも事実です。

ベートーヴェンでは第9交響曲のフィナーレで「おお友よ、こんな調べではなく」とか、最後の弦楽四重奏曲での「そうでなくてはならぬ!」に示される通り、直前のゆっくりとした安らかな音楽を否定し、人間たる者ウジウジしていてはいかん!明るく快活で常に前向きだあるべき!という、人間のあり方に関する理想主義的なメッセージを感じます。常に前進し力強く闘い続ける、というこの態度は社会運動家や革命家にも、あるいは資本主義の歯車の一つとして働き続ける企業戦士にも理想的な態度ではあります。まあ悪い方へ進めばブラック企業自己啓発セミナーやカルト宗教にもなってしまう訳ですが…

音楽のみならず、芸術において価値が高いとは、どの様に判断されるべきなのでしょうか?単に「自分が最も感動するから」という判断方法も勿論ありでしょう。それとは別に客観的に判断してみようとした時に、技術が優れているとか、格調が高いとか、時代に与えた影響が大きいとか、作者の(実生活ではなくあくまで作品を通して示される)精神的態度が素晴らしいとか(?)などなど、色々な側面が総合的に判断されてゆくのでしょう。そんな中で、クラシック音楽においては伝統的にバッハ、モーツァルトベートーヴェンが最高だという価値観があり、まあそうなのかな?そうなのかもしれないなあ、というようには感じました。

ただ、ベートーヴェンに関していえば、かれは反動的なメッテルニヒ体制の下に暮らしていたとは言え、結局は人間と人間社会、その未来を信じていたのではないかと想像できます。

これに対してマーラーは、1848年の革命の失敗以後の時代に生きていただけでなく、ユダヤ人として当時のヨーロッパで有形無形の差別を受けながら生きてきたのであり、いつまでったても差別を止めない人間社会とその未来についても結局は絶望していたのではないか?とも考えられなくもありません。

いわゆる「マーラー・ブーム」が起こり始めた時代は冷戦後期であり、ボタン一つで人類が世界を滅ぼす可能性がありました。また環境破壊が進み、人類とは万物の霊長でもなく神に姿を似せて作られた選ばれた種族でもなく、世界を滅ぼすただの愚か者であるかもしれないと考えられ始めた時代でした。人類と未来に希望を持てなくなった時代だった訳です。個人的には冷戦終結後の時代の「マーラー・バブル」の頃の演奏には薄っぺらなものも感じなくもありません…

話は変わりますが、私はここ数年ますます日本の未来には希望を持てなくなりました。蔓延する差別とヘイトスピーチ、自慰的な愛国主義と排外主義…極端な差別や自慰的排外主義を主張するものがあくまでごく一部としても、その危険性に気付こうともしない大多数の人々…。今後、戦前の様な軍国主義が復活したとしても全く不思議ではありません。そんな中で、どうやって生き残り、身を守って行くか…そんなことも考えています。

最近改めてクレンペラーの指揮でマーラーの第9交響曲を聴きましたが、中年となった今でも、バッハやモーツァルトベートーヴェンのどの曲よりも大きな感動を受けたのは事実です。「格調の高さ」とやらでは確かにベートーヴェンには及ばないのかもしれませんが、特に最終楽章における、この世のものとは思えない至純な崇高さの出現は、私にとってはバッハやモーツァルトベートーヴェンでは決して味わえないものでした。自分に嘘はつけません。

考えてみれば、真に優れた芸術なら、空しさのない充実感を味わえるはず、という考えが間違いでした。鑑賞した後に幸福感を感じるか、むしろ虚無感や恐ろしさを突きつけられるかは、芸術の価値の上下とは何の関係もなかったのです。快活な幸福感に包まれるから偉い、というのであればカルト宗教も偉大な芸術になってしまいます。

また、最も偉大な音楽芸術は何か?とか、歴史上最も偉大な作曲家は?とかいうことを考えること自体がそもそも既にどこか馬鹿げているのでしょう。自分にとって大切な音楽は何か?自分の今後の人生にとって大切な音楽は何か?そういう視点の方を今後は重視して行くべきなのかもしれません。