逆走自転車に対する対処法について

何年か前に警察が自転車の違法行為に対する取り締まり強化を打ち出したが、現在も自転車の車道逆走(右側通行)は一向に減らず、警察が取り締まる気配もない。

個人的に感じるのは、車道と歩道が分かれていない道路では逆走自転車が増えることである。ママチャリやクロスバイクは平然と逆走している。言うまでもないが、「車道と歩道が分かれていない道路」は全体が車道であり、当然このような道路でも自転車は左側通行である。以前は路側帯(歩道のない道路の隅に引いてある白線が引いてある場合の白線より側端側)のなかでは自転車の右側通行(つまり右側の路側帯を走ること)が認められたが、2013年12月1日の法改正によって禁止となった。また、白線が引かれていない道路の即端は「路側帯」ではなく単なる「路肩」であり、これは法改正以前からそもそも自転車の右側通行は認められていない。

ある程度自転車を愛好する人に取っては、逆走自転車は実際迷惑な存在である。

自分が道交法に則って車道の左側を走っていて、前から逆走自転車が来る。後ろからはトラックやバスなど大型車が来る。普段でさえ大型車の幅寄せで怖い思いをすることは多いのに、違法な逆走自転車によってさらに危険な思いをする可能性がある。

とある対処法

逆走自転車に遭遇した場合にはとある対処法が提唱されている。是田智、小林成基共著『自転車はここを走る!』(えい出版社、2012年)の96〜98頁においてNPO法人自転車活用推進研究会の小林成基氏が提唱している方法で、実践する人もいらっしゃるのではないだろうか。これは、

1.左端の走行位置を保ち、逆走者に左側は譲らない。

2.逆走者も進路を譲らないなら停車し、逆走者を車道の中央よりにやり過ごす。

3.すれ違ってから逆走者に「自転車は左側通行ですよ」など声をかける。

である。小林氏はこの方法を提唱する理由として、

A.順走者(正しく左側を通行している側)が車道の中央寄りに避ける、という方法では、逆走者は自分の間違いに気付かず、危険な逆走者が減らない。

B.正しく法律を守っている順走者が、法律を破っている逆走者の為に、自分からより危険な車道の中央寄りに出る必要はない。

などを挙げている。

 

では私自身が上記1. 2. 3.のうち、1.と2.を実戦してみて感じた問題点について書いてみたい(さすがに3.を実戦してみる勇気はありません…)。

 

この対処法を一部実践してみて感じた限界と問題点

A.まず、逆走者に間違いを気付かせる効果に付いては、殆ど無いのではないか、という印象である。これは仮に上記3.をも実践したとしてもたいして変わらないのではないだろうか?

逆走者のほとんどは、自分が違法な悪い行為をしているという自覚はない。大半は「自転車は左側通行」ということ自体を知らないか、又はそれを知っていたとしても、そんなものは現実の生活においていちいち守る必要はない単なる建前の一種、と考えている(車が来なければ赤信号を渡る歩行者と同じ心理である)。

このような人を相手に上記の方法を行っても、相手は「変な人に嫌がらせをされた」という印象しか持たない可能性はある。

このように「変な人に嫌がらせをされた」という印象しか相手に与えられないとすれば、逆走者がとてもガラの悪い人物だった場合、無用なトラブルに巻き込まれる可能性もあるかもしれない(幸いまだ私はそのようなことにはなったことはないが…)。あるいは、逆走者が登下校中の女子中高生などだった場合、「変な人に嫌がらせをされた」と保護者や教員に報告されれば、女子学生を狙った不審者が出没している、などという誤解に基づく不名誉な噂を広められる可能性もあるかもしれない(実際登下校中に逆走してくる中高生も男女を問わず多く、上記の方法で対処したことは何度もある)。

B.逆走者に危険な車道の中央寄りを走らせる、ということは、裏返せば「法律を破る悪い奴に危険な側に追いやる」という復讐の精神がないとも言えないのではないか?という疑念がある。これについて小林氏は順走者からは迫る車は見えないが、逆走者からは見えているので問題ないとような書き方をしている(言うまでもなく順走者にとって自動車は背後からやってくるが逆走者には前からやってくる。日本で歩行者が右側通行なのはこの面から安全だと考えられる為だろう。ただし、車両と歩行者の通行側が逆なのは先進国では稀らしい)

ただし逆走者の方が相対速度が大きく(自転車20km/h、自動車40km/hとして、順走者の自動車との相対速度は20km/h、逆走者は60km/hである)、この点から来る別の危険性(接触した時の衝撃の大きさ、自動車の側からの回避の難しさ)もあると考えられる。特に道幅が狭い場合、この危険性は高い。

仮に(あくまでも仮にの話だが)、中央寄りにやり過ごした逆走者が後ろからやってきた自動車と接触して大怪我または死亡した場合、法的には「あなたは道交法を守っただけなので責任はありません」と判定され法的責任を問われたかったとしてもても、道義的に全く責任を感じずに済ませることは出来るのだろうか?

また逆走者放任の現在の警察の様子から考えると、上記1. 2. の行動に理解が得られず危険な行為だと判断されれば、法的責任を一切問われないということはありえるだろうか??

 

ではどうするのか?

客観的に考えた場合、逆走者に対する最も「大人な」対応は、自分から車道の中央寄りに避ける、という多くの人が行っている方法であろう。是田氏は「私はよけて注意しますね」としており、逆走者を右側に(つまり自分から車道の中央寄りに)避けながら「自転車は左側通行!」と注意してるイラストが載せられている。ある意味王道であろう。しかし実際に「自転車は左側通行!」などと言うのは私には無理だ。この右に避けるという方法を逆走者に対する注意なしに無言で行えば、小林氏が言うように逆走者に違法性を啓発する効果は一切無い。ただし、逆走の危険性と違法性の啓発は本来は警察の役目であり、順走者の役目ではないともいえる。しかし警察はそんな啓発に力を入れている様子はなく、逆走者を取り締まる気配もない。ただし、上でも書いたように、上記小林氏の方法に逆走者を減らす効果があるのかどうかも疑問である。

結局の所、自分が今でも上記の小林氏の提唱する方法のうちの1.と2.をなるべく実践しているのは、違法な行為を行う人に、その違法性と危険性に気付いてほしいという思いがあるのと同時に、逆走という危険な違法行為をする輩に個人的にも一矢報いて溜飲を下げたい、という心理があるのも事実だ…。

 

今後、この小林氏の提唱する方法をやめるのか、続けるのか、自分の中でまだ答えは出ない。

(6月11日にかけて部分的に追記、加筆、推敲を行いました)

 

「メロディ」って何だ?

またもツイートのまとめから。

 

 

 

 

 ちなみにツイッターでは新しいものが上に表示されますから、ここでは逆に矢印は上向きだと考えて頂けると助かります。

 

で、結局、何をもって「美しいメロディ」と感じるかは本当に個人の趣味の問題でしかないんだなあと感じざるを得ない訳です。

例えば完全に十二音技法で書かれているシェーンベルク弦楽四重奏曲第3番、4番あたりについて「メロディがない」というならまだわからなくもないのです(個人的には、弦楽四重奏曲第3番、4番あたりについてもメロディはあると感じますが…良いメロディかそうでないかは別として)。

しかし「グレの歌」なんて完全に後期ロマン派音楽であって、これを「メロディがない」みたいに感じる感性は私には理解できません…

キーン氏は件の文章でシェーンベルクを貶した後でロッシーニを始めとした前期ロマン派イタリアオペラの「メロディ」を讃えるのですが、

私の場合、ドヴォジャークの交響曲からクラシック音楽を好きになり、その後チャイコフスキーマーラーブルックナーブラームスなどからクラシック音楽の世界に入って行き結局、前に書いたようにレーガーとかシェックとかマルクスといった後期ロマン派の寂れたどん詰まり終着駅みたいな音楽が好きになってしまったタイプなので、何だかんだで19世紀後半から20世紀初頭の音楽のメロディが最も自然に楽しめるメロディだったりします(後には古典派音楽や前期ロマン派音楽の良さも解るようにはなりましたが)。正直言うとオペラならドイツオペラやロシアオペラの方が好みです。

これは別にどれが偉いとか正しいとかの話ではなく、完全に個人の趣味、感性の話なんでしょうね…。実際、私の耳にはロッシーニのオペラよりブルックナー交響曲シェーンベルクの「グレの歌」の方が美しい旋律が多いと感じるのは事実ですし、「メロディは死滅したのか」という文章の冒頭に「グレの歌」を出す感覚は本当に理解し難いです…

 

5月30日追記

 

シューマンとマーラー

以下は自分のツイートから。

 

 

若い頃はマーラーこそ史上最高の作曲家、圧倒的な音楽の神だったのですが、オッサンになってくるとそうでもなくなってくる、というのはやはり精神的に老けてきたんだなぁ、とも感じる訳です。

じゃあ今では作曲家としてマーラーシューマンはどっちが好きか、といわれると、うーむ難しいところです。今後この二人のうちのどちらかしか聴けません、となったら、やはり今でもマーラーの方を選ぶような気がします…。

芸術としての高さ(なんてことはそう簡単に断言できるものではありませんが)から考えれば、やはりバッハやモーツァルトベートーヴェンといったところが最高なのでしょうね。しかし、客観的に考えた芸術性の高さと自分の好みというのはやはり別です。

とうわけで現在は古典的格調とロマンとを兼ね備えたような音楽、ブルックナー、レーガー、シェック、フランツ・シュミット、ヨーゼフ・マルクス、エゴン・ヴェレス、ミャスコフスキーといったあたりが一番好きですね…

ブラームスも好きですが、オッサンになってくるとあのウジウジしたような寂しさは聴いていて辛いものがあります。

 

今日の大回り乗車(個人的メモ)

休日をなるべく金を使わずに楽しむにはどうすれば良いか?

わたくしの場合、仕事のない日はロードバイクに乗ってます。

世間一般では「ロードバイクは金がかかる」と思われていますが、これは違うと思っています。金がかかるのは金をかける余裕のある人の話であり、金をかけずに楽しむことは十分に可能なのです。

最初に「ロードバイク」と呼べるうちの最も安い部類のアルミフレームの完成車と、サイクルコンピュータ、ボトルホルダー、ヘルメットやグローヴなど最低限の装備を買い揃えたら、あとはそれ以上グレードを上げず、それに乗り続ければ良いのです。

パンクしてチューブを入れ替えたら新しく安いチューブを買う。タイヤがすり減って溝が無くなってきたら安いロード用タイヤを買う。そんなに頻繁に替える訳ではないからたいした金額ではありません。

休日の度にに小洒落た飲食店に行って小洒落たランチを食ったり、小洒落たカフェでお茶するよりずっとお金はかからない筈です(もちろんそれはそれで優雅な時間の使い方でありますが…)。

速くなりたければ脚力を鍛えればいいのであって、高級機材に頼る必要はありません。というより、いくら高級な機材を揃えた所で、私のように趣味で乗っているだけの腹の出たオッサンがプロ選手のみならずセミプロ、アマチュア選手に速さで勝てるはずはないのです。だからそもそも速さや距離を他人と競う気もありません。距離も平均速度も体調が良さそうな時に自己記録を目指してみる程度で十分です。

ロードバイクにはお金がかかる」と言っている人達はなんだかんだ言ってお金に余裕のある人達なのだと私は思っています。「小欲知足」を貫けば、最初に買う時以降はそんなに金はかかりません。

 

話が逸れすぎたのでちょっと戻します。

わたくしは職業柄、世間一般とはオフの日が異なるのですが、本日は午前中に仕事があっただけで午後がガバッと暇になってしまいました。こういう日は普段ならさっさと帰宅して午後から日没時間あたりを目標に自転車に乗るのですが、世間はゴールデンウィークで遊興モード。普段とちょっと違った余暇を過ごしてみようと考えてやはり金のかからない楽しみ方として思いついたのが大回り乗車であります。仕事のあった所(埼玉県内)から自宅(埼玉県内)に帰るまでに大回り乗車をして両毛線(栃木県〜群馬県)に乗ってみました。

 

ネットで調べると両毛線は昼間の時間だと一時間に一本程度なのですが、本数の少なさもあり通勤通学時間には結構混むらしいと言う話。今日は休日なので大丈夫かなと思ったら、小山駅では発車の三十分前頃に到着した折り返し電車から大勢の人が降りてきて、これは今日も混みそうだなと思いさっさと乗車して席に陣取ったのであります。

これは正解でした。発車前には車内はかなり混雑しており、発車まで時間があるからと言って待合室などで待っていたらとても座れなかったでしょう。小山から富田、足利まではかなり混雑していて景色も殆ど見えませんでした。

その先は多少空いてきて車窓から赤城山も見えましたが、不思議なのは両毛線から見える赤城山はいまいち低く見えて迫力がありません。むしろ埼玉県内の荒川サイクリングロードから見える赤城山の方が、裾野までみえて雄大だと感じます。群馬県内なら、上越線から見える赤城山はより雄大だったような記憶があります。

 

そんな訳で、その後高崎から高崎線で埼玉県内の自宅最寄り駅へ帰ったのですが、途中でスマホの電池が急激に減るのが気になってモンポウメシアンヴェーベルンと聴いてきた音楽を足利あたりから停止した以降は少々退屈でありました。景色と振動と車両の走行音だけで満ち足りてしまう、いわゆる「乗り鉄」にはなりきれないのでありました…

今度同じようなことをする場合はスマホでネットをするのはなるべく控え、鉄道に乗り込んだら音楽再生だけにするよう心掛ければ最後まで旅を楽しめるかもしれません…

 

「回答」についての「感想」

一つ前のエントリーについて回答を頂きました。

greg-yamada.hatenablog.com

この中で、

「例えば戦争においてある兵士にとって敵兵は、ある意味個人的に無関係であるのは否定できませんが、しかしながら、あくまで「敵」であり、相互に納得の上で殺し合いをしている以上、無関係とはいえないでしょう。然るに、私は国家の成員であり、その意味で無関係ではない「敵」に対して(間接的に)殺害に及ぶことは、当然の話であろうと思います」

については、既に拘束、収監している場合、敵兵は「捕虜」であって、捕虜は国際条約で非人道的な扱いを禁じられており、拘束した国事犯も同じではないか?という点、また、

「『国家に対する敵対行為』は国家とその成員全員に対して喧嘩を売っていることであり」

については、建前的にはそうであっても、実際には大半の反体制活動は「悪い体制によって苦しめられる国民、人民を解放する」つもりで行われるものであり、喧嘩を売っているのは成員全員ではなく体制の権力者のみである例も多い、

と既に前エントリーで述べました。

 

上記の「回答」に対するわたくしのブコメこちらです。

「死刑廃止論の例外」についての回答 - グレッグ山田の文句百万回

個人と国家の関係についての価値観に根本的な考え方の違いがあるようなので、議論としては平行線だなぁ、という感じです。ただ、そのような考え方もある、という点は理解しました。

2016/10/15 18:21

b.hatena.ne.jp

「個人と国家の関係についての価値観」とかいうちょっと妙な言い回しをしてしまいましたが、結局これが何だったのか考えてみると、

「個人の生命の尊厳」と「国家」の両者をどの程度のバランスで重視するのか、という点ではないかと思います。

勿論、これは単純に「○○の方が大事」と簡単に結論づけられるものではありません。国家が安定して支配することで治安が安定し、それによって個人の生命の尊厳が守られることになるわけですから、国家というものも重要です。

ただし、「個人の生命の尊厳」は近、現代社会においてある程度普遍的な価値観であり、それは「天賦人権説」に従えば、人間が作った法制度や国家制度とは別に確固として存在しているものとなるはずです。ですから、命の重さについては国内の一般の犯罪者も、国事犯も、敵国の捕虜も、本質的には差があってはならないはずです。

私が死刑廃止論を「人命を重視する崇高な理念」だと感じながらも、いまだそれを躊躇なく支持できない理由は、日本で死刑判決を受けるような犯罪者は(勿論冤罪の場合は別として)他人の「個人の生命の尊厳」を複数以上、踏み躙っているからでもあります。「個人的に無関係の犯罪者が死んでもどうでもいい」という気持ちにはそう簡単にはなれない訳です。

国内の一般の犯罪については死刑廃止の立場に立ちながら、国事犯についてはあっさりと「死刑は妥当」としてしまうのは、国家の外と内で「個人の生命の尊厳」に差をつけているわけで、すなわち「国家」というものの存在に生命の価値に差をつけられる程の重さを認めていることになります。「国家は復讐の代行機関ではない」と仰りながら、国家自身が自らを傷つけたものに対して復讐することは認めていることになります。

私は、国家というものは個人が安全に暮らす為に、一定の地域に住む人間達の合意によって作られる装置のようなものでしかないと考えています。ですから(あくまで理想論としては)その外と内で「天賦」である「個人の生命の尊厳」に差があるべきではない、というのが私の考えです。ですから、一般の犯罪については死刑を廃止すべきだが、国事犯については死刑は妥当、とするのはやはり矛盾であると感じざるを得ませんでした。

 

 

 

「死刑廃止論の例外」についての疑問

とある方のツイートが元で、以前からあった死刑の是非についての議論がちょっと盛り上がった(?)ようです。

 

私自身は、死刑については廃止すべきか、存続すべきかは結論が出せません。「国家が殺人を犯して良いのか?」「冤罪を完全に無くすことはできない」という意見も尤もだと思いますし、その人命を重視する理念は崇高なものだとも感じますが、一方で、尼崎で起きた凶悪事件の首謀者である角田美代子などは、単なる死刑などではなく、なるべく長時間に渡って多大な苦しみを与え続けるような、極力残虐な方法で死刑にすべき!などという気持ちも(個人的感情としては)持ってしまいます。 

ただ、個人的にはこのブログで述べられている死刑廃止論の根拠が、感情的な言葉を排して冷静に客観的に述べられていてとてもわかりやすく、参考になりました。

greg-yamada.hatenablog.com

ただし、最後の節「死刑廃止の例外」については全く納得がいかなかったので、次のようなブコメをしました。

死刑廃止論者はこう考えているということをなるべく明晰に書いてみる - グレッグ山田の文句百万回

これを読んでも死刑の是非について自分の中では答えが出ないが、廃止論について理解を深めることは出来た。ただし、最後の「死刑廃止の例外」節についてはその前の部分の主張と矛盾しており全く説得力がない。

2016/10/06 02:50

b.hatena.ne.jp

これについては次のような回答を頂きました。以下引用です。

ブコメ回答id:aw18831945
すこし、分かりにくかったので補足。
要するに、犯罪者を裁くのは、ある政治的編成をされた集団のメンバー(友)が法を逸脱した場合、隔離矯正するためであると考えるなら、そもそもその政治的編成をされた集団の「敵」(裏切者)に対しては、死刑、より厳密に言うなら戦闘行動としての殺傷を行うことに矛盾はないかと思います。」引用終わり。

うーむ、ご回答を頂いて申し訳ないのですが、やはり全くわかりません。グレッグ山田さんが死刑廃止の根拠とされていたものが、これだけの理由で全て無効になるというのはやはり全く納得できませんでした…。

1,冤罪の可能性

「外患材や内乱罪のような国事犯、反乱や抗命、敵前逃亡や利敵行為」についても、冤罪の可能性は排除できません。特に敵前逃亡や利敵行為は(例えば軍の上官や上層部の不正を暴こうとしているなどの)特定の人物を陥れる為に周囲の人間が口裏を合わせる、という可能性は大いにあるでしょう。

2,「国家(あるいは政府)が殺人を犯すことになる」

いわゆる「反体制派」というものは、その国家体制下にある国民、人民全てに対して危害を加える、又は殺害することを目的に活動している例は殆ど無いでしょう。多くの反体制派の活動の理由は、「現体制は無能である又は間違っているが故に国民、人民を不幸にしている。」なので、左翼系ならば「国民、人民の幸福のため」右翼系なら「自民族が正しい方向に立ち返る為に」反体制活動をしている訳です。その是非は別としても、それが角田美代子のような私利私欲の為の凶悪犯罪よりも、国民、人民に対して重大な犯罪だと言えるのかどうか?角田美代子を死刑にしないのなら、国民、人民や自民族の幸福の為を思った行動(それが客観的に見て間違っていたとしても)を死刑に出来るのでしょうか?(もちろん私は、完全普通選挙の行われている現在の日本で、社会変革の為とはいえテロ活動を行う団体は決して支持しませんが…。)

敵前逃亡についていえば、実際に戦場に立ってみたらあまりに恐ろしくて逃げてしまった、あるいは人を殺したくないという信念に基づいて逃亡した場合、

利敵行為については、敵軍に脅迫、拷問されて恐怖のあまり利敵行為に加担してしまった、という場合、国家の為に国民があるのではなく、国民の為に国家があると言う現代民主主義の価値観に基づいて、それが角田美代子のような国内の一般凶悪犯より重罪だと言えるのでしょうか?

 

要するに、死刑廃止の根拠について、それまで非常に明晰に明快に説明していらしたグレッグ山田さんが、「例外」とされる死刑に対してはその論拠を実にあっさりと翻してしまうところが全く不思議でなりません。

革マル中核派のような過激派集団ならまだしも、極右やネトウヨの人達は合法的活動を行う日本共産党やシールズ、社民党あたりまで「反体制危険分子」などと呼んだりする訳で、時の権力の都合で外患材や内乱罪なんてものは恣意的に擦り付けられる可能性もあります。

 

上に書いたように私は死刑については賛成とも反対とも言い難い立場ですが、もし仮に死刑反対の立場に立つならば、その時点での権力の都合によって幾らでも擦り付けられる「外患材や内乱罪のような国事犯、反乱や抗命、敵前逃亡や利敵行為」について、死刑廃止の例外なのは妥当、という結論は全く受け入れられませんでした…。

 

 3. 戦闘行動としての殺傷である

私のブコメに対する回答として、「そもそもその政治的編成をされた集団の「敵」(裏切者)に対しては、死刑、より厳密に言うなら戦闘行動としての殺傷を行うことに矛盾はないかと思います。」とあります。仮に戦場において戦闘中であれば、敵兵は撃たねばならないでしょう。国事犯=敵兵と考えると、例えばテロリストがテロを実行中なら、当然市民の安全のためには射殺も止む無しです。しかし、既に拘束され収監された敵兵は捕虜です。

捕虜 - Wikipediaの現時点の版(2016年9月29日 (木) 13:00(JST)の版)では次のような記述があります。(以下引用)

「1949年8月12日のジュネーヴ条約4規程及び1977年の第一追加議定書によって、戦時における軍隊の傷病者、捕虜、民間人、外国人の身分、取扱いなどが定められている。第3条約「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」により、ハーグ陸戦条約の捕虜規定で保護される当事国の正規の軍隊構成員とその一部をなす民兵隊・義勇隊に加え、当該国の「その他の」民兵隊、義勇隊(組織的抵抗運動を含む)の構成員で、一定の条件(a, 指揮者の存在、b, 特殊標章の装着、c, 公然たる武器の携行、d, 戦争の法規の遵守)を満たすものにも捕虜資格を認めた。

1977年の第一追加議定書ではさらに民族解放戦争等のゲリラ戦を考慮し資格の拡大をはかった。旧来の正規兵、不正規兵(条件付捕虜資格者)の区別を排除し、責任ある指揮者の下にある「すべての組織された軍隊、集団および団体」を一律に紛争当事国の軍隊とし、かつこの構成員として敵対行為に参加する者で、その者が敵の権力内に陥ったときは捕虜となることを新たに定めたのである。

なおテロリスト等は国際法上交戦者とはされず、捕虜にはなり得ない。最近では軍隊とテロリスト等が交戦する非対称戦争が注目されている。むやみに捕縛者を犯罪者扱いすれば国内外からの非難を浴びかねないこともあり人道的見地から捕虜に準じた扱いをとるケースが増えている」(引用終わり)

このように不正規兵も捕虜と扱われ、テロリストですら「人道的見地から捕虜に準じた扱いをとるケースが増えている」という近年の状況において、人命は尊いという人道的見地から死刑廃止を唱える方が、国事犯や軍法においては「銃殺が妥当」とするのは、やはり全く納得がいかない…というのが私の感想です。

 

 

そんなに大好きという訳でもないが無調音楽や現代音楽を擁護してみる試み

もう2ヶ月近く前になりますが、こういうTogetterまとめがありました。

これに対するはてなブックマークこちら。

このはてなブックマークでの私のコメントはこちらでした。

「なぜクラシック音楽の人口が減り続け、今も激減しているのか」をとてもわかりやすく説明→分かり易すぎると話題に - Togetterまとめ

時代とともに美的価値観は変化するので、古典芸術が厳しくなるのは仕方ない。諸行無常。俺はクラシックしか聴かない人間だけど、無理に布教する気もないし、懐石と同じように一部の愛好者によって続けばそれで十分。

2016/04/22 01:43

また、このブコメの某コメントで「よりきちんと洞察」としていたのがこのブログ記事…。

正直言うと、この記事についての私の感想は、全体的に「何だかなぁ〜」という感じでしたが、これについてのコメントはこちらです。

クラシック音楽衰退の原因と対策(4万回 PV記念): 壺中日月長

「対策:国内外の作曲コンクールは、すべて『調性音楽』で作曲するよう改正する」そういうことをやったのはスターリン時代のソ連とかナチスドイツなど独裁政権ばかり。前衛芸術の禁止は文化統制の一種です。

2016/04/22 14:50

全部は書ききれないので言いたいことの一部だけを書いたブコメです。

 

無調音楽はしばしば核エネルギーや共産主義に例えられることがあります。

いずれも19世紀終盤に予言され、20世紀前半に実現し、夢と希望に溢れた豊かな未来を約束する新発明として登場しました。

しかし、核エネルギーは広島、長崎での原爆投下による大虐殺、スリーマイル島チェルノブイリの事故による環境破壊をもたらし「共産主義」はスターリンの大粛清やポルポトの大虐殺を引き起こします。

とは言え、核エネルギーの研究はレントゲン撮影や放射線治療といった恩恵もまた生み出しました。

マルクス主義の思想は労働者の権利の保護や弱者救済の社会保障制度を生み出し、議会制民主主義を否定しない西欧のユーロコミュニズムや日本の共産党は、先進諸国の民主主義社会における有力な野党勢力であり続けています。

無調音楽についても、極端に前衛的な一部の人達は聴衆の理解を度外視した作品を書き、理解できない人からは単なる騒音と感じられるような作品も書かれました(もちろん、前衛的芸術表現の探求それ自体は一定の価値のあるものであり一概に否定されるべきではありませんが…)。しかし、無調音楽であってもなかなか美しい音楽、駄目で退屈な調性音楽より楽しめる音楽は存在していると感じます。例えば…

 

シェーンベルク:5つの管弦楽曲op.16

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この曲をイヤホンで聴きながら新宿駅の地下の雑踏を通り抜けると結構楽しそうですよね。…楽しくないですか。そうですか。

ヴェーベルン管弦楽のための6つの小品op.6

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ヴェーベルン交響曲op.21

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ヴェーベルンの音楽は、あえて俗っぽい例えをすると霧に包まれた湖というか、山奥の秘湯の露天風呂に一人で浸かっているような神秘的な美しさがありますね。…そんな感じはしないですか。そうですか。

*ヘンツェ:交響曲第3番

Henze SY03 - YouTube

*ノーノ:『力と光の波のように』

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いや〜、どちらも盛り上がると血湧き肉踊る楽しさですね。…楽しくないですかそうですか。

*移調の限られた旋法

 フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは「移調の限られた旋法」というものを用いましたが、 

移調の限られた旋法 - Wikipedia

これは作曲者の使い方次第で調的にも多調的にも無調的にもできる代物で、ある意味、調性と無調の緩衝地帯、あるいは調性と無調の平和共存のような趣があります。

メシアン:峡谷から星々へ

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メシアン彼方の閃光

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*調性音楽を禁止さえすれば「現代音楽」ではなくロマン派音楽になるのか?

たとえばミニマリストの音楽は現代音楽の一分野ですが、「調性音楽」か「無調音楽」かといえば、あきらかに調性音楽の方に入る訳です。(「ミニマリスト」といってもちょっと前に流行った「極めて質素な生活をする人達」のことではありません。音楽でミニマリストといったら「ミニマルミュージック」のことですね)その代表者の一人としてスティーヴ・ライヒという作曲家がいます。

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どちらも1970年代後半、今から40年ほど前に作曲された「現代音楽」になるわけですが、うえのブログで

国内外の作曲コンクールは、すべて「調性音楽」で作曲するよう改正する」 

と仰っていた方は、果たしてこれらの音楽をどう感じるのでしょうか?

 

メシアンの「移調の限られた旋法」の例のように、「調性音楽」と「無調音楽」は明確に線を引いて分けられるものではないし、「現代音楽」と「現代音楽でない音楽」も、明確に線引きできるものではありません。コンクールで「これは無調音楽だから失格」「これはミニマルミュージックだから現代音楽であり失格」とか、誰が判定できるのでしょうか?

 

 

 

…で、結局何が言いたいのかと申しますと、かつて大衆娯楽の花形であった歌舞伎が時代の変化によって今は古典芸能になっているように、クラシック音楽も今では古典芸能の一種であり、博物館で飾られる骨董品、美術館に飾られる古典絵画のようなものです。それで別に良いんです。大衆娯楽の花形として復活させようとする必要などありません。

現代音楽も美術館に飾られる現代アートのようなものです。大衆娯楽ではありません。それでいいんじゃないでしょうか。

ブコメでも書いた通り私は音楽はクラシックしか聴かない人間ですが、今まで買った沢山のCDをiTunesに入れて死ぬまでスマホで聴きたい時に聴きたいだけ聴ければそれで十分です。

私が死んだ後の時代にクラシック音楽や現代音楽が滅んでもはや演奏されなくなったとしても、諸行無常だからそれで良いんじゃないでしょうか…